華奢に過ぎる肩を滑らせるようにして窓から入り込んだ一護の部屋の中、
図らずも土足のまま踏んだ机のなめらかな表面を、彼女は僅かに眉を顰めるようにして視線で凪いだ。
照明が消され、薄暗い室内にそこだけ白く浮かび上がるような指先で取り出した生成り色のハンカチ、
その安価で弱い生地で丁寧に丁寧に、彼女は自分の残した土塊をぬぐう。
艶めいたローファーを脱ぎ捨て今はただぴとりと沿うような紺色にのみ包まれた膝下の、仁王立ちの凛々しい立ち姿とは裏腹に、その指先の仕草はひたすらに、ひたすらに優雅だと思う。
「姐さんってもしかして、ジツはいいとこのお嬢さんだったりするんですか?」
冗談めかした問いかけに振り向いた彼女の表情はやはり、薄闇にまぎれて見えない。
「…なんだ急に」
「いえべつになんとなく。姐さんってほら、いつもはなんというかほら足技とか素敵ですけど、もの食べるときとか雰囲気がお嬢様っぽいなあ萌えるなあとか思ったりなんかりしたりして」
本音までうっかり零した軽薄な台詞、俺らしい台詞、けれど彼女はいつものようにたわけ、だなんて
あの俺にとっては堪らなく甘い声音で叱り付けてなんかくれなくて、ハンカチを胸ポケットにしまいこんだあと後ろ手にローファーを抱えたまま、そうか、とぽつりと呟いた。
その声に滲むなにか言葉にできないものに柄にもなく俺はうろたえて、
それで思わず馬鹿みたいにはしゃいで見せた。
普段より高く響いた少年の声、―――借り物に過ぎない、あの俄か死神の声。
言葉を紡いでいるのはまさしく俺でしかないのに、
でも響く声はやはり一護のものでしかなくて、
そして俺はただ目の前にある現実を知るのだ。
「一護のこと、心配なんスか? だーいじょうぶっスよ、あいつ体力だけはあるんですから、
姐さんが心配してやるだけ無駄ですってば」
「心配などしておらぬよ。ただあの単細胞が果たしてうまくやれるものか気になるだけだ」
それを心配してるって言うんですよ、なんて俺は口にしない。
それは姐さんに対する優しさなんかじゃなくて、ただ口にすることで一番傷つくのは俺自身だって、
知っているからに過ぎないのだろうけど。
今日出た虚は二匹、そして魂葬が一件。
大して広くはないこの町を走り回って、さすがに息を切らした姐さんにあのオレンジ頭のクソガキは馬鹿みたいにかっこつけて言ってのけやがった。
―――もうお前戻ってろよ、後は俺一人で十分だ。
渋る彼女を半ば無理やりに納得させて、あいつの体に入ったままの俺に付き添わせて。
多分きっとそれはまがい物の俺なんかとは違って、あいつなりのほんとうの優しさなんだろうけど、
たった15年―――それでも俺よりも長い―――しか生きていないあいつに、単なる俄か死神でしかないあいつに、
虚を斬るという仕事をさせている彼女が、何を想い何に苦しんでいるかなんて、考えたこともないのもきっと、ほんとうなんだろう。
あーあ、とため息をつく。こんなこと考えてるの、ちっとも俺らしくない。
たとえ借り物でしかなくとも自由のきく男の体を手にした俺と、愛しい彼女が今ここにいることは確かであって。
「ま、俺としちゃできるだけ時間かけてきてもらいたいもんスけどね。
せえっかく姐さんと二人きりだしー、それにっ」
ようやく一護のバッシュを脱ぎ捨てると、俺は思いっきりあいつのベッドに飛び込んだ。
軋むスプリングが押し返してくる。その勢いに彼女のスカートがほんの少し、揺れた。
「何をやっているのだ、貴様は」
ベッドにダイビングした俺に、呆れ混じりに問いかける彼女がくすりと噴出して、それで俺は妙に嬉しくなる。
「やー、一度やってみたかったんすよ。なーんかやたら寝心地よさそうで。
現世にはこんなもんまであるんだなあって感動しちゃいましたよ」
「確かに、面白い代物だな」
珍しく同意してくれた彼女は指先でシーツをつまむ。白い指先がやはり白い生地に滲むかのようだった。
「姐さんもどうです? ほらばーんと」
口にした言葉はいつもの勢いで、深い意味なんてなくて、
「そうだな」
なんて彼女が、言うとは思わなくて、
次の瞬間彼女は、ふわりと俺の隣に身を投げ出した。
やっぱり随分と軽い体で、それでもベッドは確かに彼女の存在を沈み込ませて、
そもそもベッドより先にほんのりと俺の鼻先に届いた甘い匂いは紛れもなく彼女のもので。
思っても見なかった至近距離に思わず硬直した俺に気づくこともなく、やはり彼女は笑う。
「本当、気持ちがいいな」
「…でっしょう?」
こんなときでさえ軽い言葉がちゃんと口をついて出てくる、俺に呆れているのはお約束。
「押入れはやはり狭いからな」
「でえすよね。一護も気がきかねえんだから、姐さんあいつ押しのけてここで寝ちゃえばいいのに」
「馬鹿言え、家主を押しのけるわけにはいかぬだろう。かと言ってあやつの隣に潜り込むのもな」
そういって途切れた言葉、途切らせたのは、優しい微笑。
「あやつは今思春期とやらの真っ最中だろう。少しは気を使ってやらぬとな」
―――そのとき、俺の中を駆け抜けたものは、一体なんだったのだろう。
彼女の微笑みは、「男」に向けるものだとは到底言いがたくて、
やはりきっと一護は彼女にとってはまず年下の少年でしかなくて、
だから羨ましがることなんか全然なくて。
ただ唐突に、その言葉と微笑が、俺に向けられることは決してないのだろうと、ぽつんと思ったのだった。
彼女の中で俺と一護はもちろんイコールでなんか結ばれていなくて、
そんなの当たり前なことで、わかりきってたことで、
同時にそれは俺が一護の体に入っていても、彼女はきちんと俺自身を見てくれているということで、
それが堪らなく嬉しかった俺がいることも確かで、だけど、
駆け抜け、けれども駆け去る事のない衝動が、ふと込み上げた。
「…っコン!」
高い声が上がる。
何を感じたわけでもなくただのしかかる俺の重みに喘いだその息すらも、果てなく甘い。
艶やかな黒髪に指を絡ませて、勢いのままに寄せた唇は背けられて、
その拍子に仰け反った透けるような白い首もとに、するりと舌を這わせた瞬間何かが弾けた。
「やっ…」
水すらもそこに溜めそうな滑らかな鎖骨の窪み、きつく吸った白い肌に欲望の痕が紅く散る。
やはりそらされたままの頬、髪の生え際に唇を落として、思わず這わした柔らかな耳たぶに甘噛み。
華奢な体が僅かにはねた。
「コン、やめっ…ぁ、ふあっ…!」
耳朶の奥にまで入り込む舌に彼女は身を震わせた。
僅かにしっとりと汗を刷き、朱を帯びた柔肌のその全てを知りたい。
乱暴にリボンを毟り取り、真っ白いブラウスの隙間から侵入させた俺の指は、
静かに、
その柔らかな白い胸に沈みこんだ。
「やぁんっ!」
成長期の掌にはささやかな膨らみ、小ぶりなそれはそれでも乱暴に掴んだ手にまるで吸い付くようだった。
吸い付くようで、どうしようもなく柔らかくて、それで、
俺は静かに顔をうずめる。
「俺、は、」
「…コ……」
「好きだよ、姐さんが。世界で、一番」
「…コン」
「だから、」
だから、と言い掛けた何かの続きを、俺は口にすることができなかった。
代わりに伸びてきた彼女の白い腕は、するりと俺の背中に回された。
柔らかな胸にやはり顔をうずめて、
それでだけど今度は何で泣きたくなったりしてるんだろう、
なんて俺はぼんやり考えていた。
「…コン。私は、怒ってなどおらぬよ」
降ってきた声は、あくまでも優しかった。
「怒ってなどおらぬ。けれど、な」
だけど俺がほしかったのはそんなものじゃなくて、
「お前の世界には、私と…一護ぐらいしかおらぬだろう。
そんな狭い世界で、どうしてそうやって一番などと言える?」
けれど優しい声は降り続けて、
「お前の世界は狭い。お前の世界は閉ざされている。
だから―――もう少し、もうすこしお前の世界を広げて。
そうしてお前の知った全ての中で、一番を見つけるといい。お前の―――ためにも」
俺を。
切り、刻んで。
「…どうやって広げろって言うんだよっ!」
吐き出した何かは、ひどく熱く、滾(たぎ)っている。
「俺の世界は狭いって、閉ざされてるって、そりゃ狭いさ、閉ざされてるさ、
だって俺は人間じゃなくて死神じゃなくて、普通の霊でもなくて、わけわかんない魂魄で」
この言葉がどんなに彼女を傷つけるかなんて、わかってる。
「だから俺は死ぬはずで、だけど俺は死ぬはずで、だから、だけど、それで、…それで、
なのに、姐さんが、生きろって。あの浦原とか言うやつから取り上げて、それで、生きろって」
「姐さんが言ったんじゃないかっ…!」
こういう風に言えば、彼女がどんなことを思うかなんて、わかってる。
俺の背中に回されていた白い腕が、ぱたりと力を失ってシーツに落ちた。
昂ぶるものを止められなくて、俺はまた溢れる熱情に任せて、白い胸に噛み付いて、
だけど、だから、と繰り返す。
「俺は姐さんしかいらない。俺の、俺の世界に、」
窓から差し込む夕日が彼女の身体にも橙の色を投げた。
今一番見たくない色だというのに、皮肉なものだ。
「姐さんしか、いらないんだ―――」
僅かに胸から顔を上げて、覗き込んだ彼女は瞳を閉じていた。
濃い睫毛に、それが頬に落とす影に、俺は何かの肯定を知った。
そうして噛み付くようにして貪ったこの何よりも愛しい唇は、
俺の知るこの世界の数少ない全ての中で、
きっと何よりも冷たい、と思う。
(完)