『 瓦解』
「海燕、殿、」
その日は、思えば望月だった。
――――
海燕殿は奥方の亡骸と対面した後、直ぐに彼女を荼毘に付した。
それには、極限られた者だけが立ち会い、私もその一人だった。
清音殿は始めからずっと泣きじゃくっていて、仙太郎殿が軽く喧嘩を吹っ掛けても(本人は吹っ掛けているつもりは毛頭無いらしいのだが)何時もの様に言い返したりはせず、その内仙太郎殿も貰い泣きしだしていた。
隊長は声には出していらっしゃらなかったが、瞳は確かに赤く潤み泣くのを堪えていらっしゃる様だった。
私も少しだけ泣いた。
でも海燕殿は、無表情でゆらゆらと立ち上ぼる煙を睨み据えていただけだった。
――――
その日の夜半過ぎ、私は海燕殿の部屋を訪ねた。
前もってそれを告げてはいなかったが、海燕殿が何時も何かある度に言っていた、
『何時でも俺んトコ来いよ、連絡もノックもいらねえからさ』
の言葉通り、私は引き戸を叩こうとした手を引っ込め、そぅっとそれを開けた。
部屋の中は真っ暗で、一瞬いないかと思ったものの、いくら鷹揚な海燕殿でも主人のいない部屋に鍵を掛けない筈は無い。
「海燕殿―‥‥」
しん、とした八畳間に、私の声だけが響いた。
月の光だけが差し込む暗い部屋で、手探りで進む私の脛にこつん、と何かが当たった。
しゃがんで触れてみると、それは程よく使い込まれた卓袱台だった。
ああ、前に来た時は、海燕殿の奥方が冷たい緑茶と白玉餡蜜を出して下さったっけ‥‥
『ルキアちゃん、これ好きよね?』
そうして目の前に置かれたのは、切子硝子の器に盛られた白玉餡蜜だった。
『本当は海燕の為に買ってきたんだけどね、』
奥方はにこっと笑ってお盆を抱えた。
『二十歳過ぎのいい年こいた男よりも、ルキアちゃんみたいな可愛い子に食べてもらう方が白玉だって本望じゃない』
だから遠慮しなくていいわよ、と言う奥方に、私は素直に頷いて匙に一掬い分、そっと口に運んだ。
その時丁度海燕殿がお帰りになって、私が白玉を食べるのを少し羨ましそうに眺めながら、がじがじと棒付き氷菓を囓っていた。
そうそう、その氷菓が二回連続で当たりが出て、その内の一本を貰ったな‥‥
じりじりと蝉の鳴く中、海燕殿は私を家まで送ってくれた。
『お前なあ、そんなちんたら食ってたら溶けちまうぞ』
そうして二人で食べた一本の棒付き氷菓は、どんな高価な食べ物よりも美味しかった。
卓袱台を撫ぜている内に、海燕殿と奥方との思い出が、怒濤の様に込み上げてくる。
卓袱台だけではない。
季節外れの風鈴を吊したままの縁側も、貼り替えたばかりの障子にも、全てに思い出が詰まっている。
でもそれはもう、これから継ぎ足される物では無いのだ。
それを思うと胸の奥が締め付けられる様に痛くて、私は慌てて卓袱台から離れた。
とふん、と背中が襖に当たる。
「‥‥―――!」
人の、気配がした。
確かこの向こうは、海燕殿が書斎として使っている場所だ。
襖に耳を押し当ててみれば、微かに物音もする。
私は襖に手を掛けて、少しだけ中を覗いた。
「‥‥海燕殿‥‥」
居た。
こちらに背を向けて窓の下にへたりこむ様に座って、表情は判らないが、その背中は普段の海燕殿とは違い、酷く小さく見えた。
きっと、疲れてしまったのだろう。
奥方が亡くなったとは言え、海燕殿にはやらねばならない事が沢山あり、海燕殿はそれらを何時も以上に完璧にやり遂げてみせた。
弱音の一つも吐かなかった。
慰めの言葉でも掛けて差し上げたい。
それで少しでも楽になって下されば。
そう思って私は思い切って襖を開け、海燕殿の名を読んだ。
「海燕ど‥――」
振り向いた海燕殿はやはり酷く疲れた様子で、ほんの数時間ですっかり老け込んでしまった様だった。
だがそれよりも私の言葉を押し止めさせたのは、海燕殿の瞳に光る、涙だった。
「‥‥‥何、で、此所に」
少しの間続いた沈黙を破って、海燕殿は呻く様に呟いた。
「‥‥悪ぃ、俺が何時でも来いっつったんだっけか」
海燕殿は乱暴に目を擦り、私に向き直った。
「どうした朽、」
皆まで言う前に、私は海燕殿を抱き締めていた。
「‥‥お、い?」
「何もおっしゃらないで下さい‥‥」
海燕殿の広い背中には手が回り切らなくて、それでも精一杯包み込んで差し上げたくて、私はぎゅっと力を込めた。
「‥‥ごめんな、朽木」
四半刻だけ、な。
海燕殿はそれだけぽつり、と呟くと、私の肩に額を押し当てた。
低く押し殺した、何処か呻きにも似た、くぐもった嗚咽だけが室内に響いた。
私は海燕殿の大きくて小さな背中を擦りながら、言い知れない不安に目を閉じた。
(完)