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暗闇の中、一護はふと目を覚ました。
頭を擡げて確認すると、時計は深夜の時刻を示している。
もう一度寝なおそうと眼を閉じかけた時、
「…っ!!」
静寂を切り裂く微かな悲鳴を聞きつけた。
胸騒ぎを覚え、一護は慌てて身体を起こす。
今の悲鳴は、確か…。
あれこれ考えるより先に、身体が動いていた。
ベッドから降りて部屋を横切り、壁の一面を占める押入れの引き戸を開ける。
…ルキアが、そこに居た。
小さい身体をいっそう小さく丸め、積み重なった布団の上に横たわっていた。
瞳は硬く閉じられ、眉間には皺が寄っている。
まるで痛みを必死で堪えているような、そんな表情だ。
「ルキア…?」
「いや…だ…」
弱々しく呟く声は涙混じりで、聞いている一護の胸を締め付けた。
思わず腕を伸ばし、出来るだけそっと肩を揺さぶる。
「ルキア…起きろ、ルキア」
「もとに…戻って…」
閉ざされた瞼から一筋の涙が零れ、白い頬を濡らす。
それを目にした瞬間、ルキアの肩を揺する一護の腕に力が込もった。
ルキアが悪夢に魘されているのは明らかだ。
驚かせたくはなかったが、一刻も早くその悪夢から救い出してやりたかった。
「おい、ルキア…!!」
「戻ってくれ、一護…!!」
弾かれた様にルキアが眼を開けた。

「ルキ…」
「は、放せ!!」
一護が名を呼ぶより早くそう叫び、ルキアは身を縮めた。
怯えた表情を隠そうともせず、一護から出来るだけ身体を遠ざけようとするかの様だ。
「ルキア、俺だって。しっかりしろよ…ほら」
言われるままに手を放し、一護は穏やかな声音で語りかけた。
自分を拒むルキアの態度に少なからずショックを受けながらも、己の感情は後回しにした。
今はとにかくルキアを落ち着かせるのが先決だ。
何に怯えているのかはわからないが、悪夢の所為で混乱しているのだろう。
無用な刺激をするまいと腕は引っ込めたまま、宥めるように言葉を紡ぐ。
「悪い夢はもう終わっちまったよ、ルキア。唯の夢だったんだ」
「…」
「怖いことなんか何もねえって。大丈夫だから…な?」
「いち、ご…?」
その声音に安心したのか、ルキアがそろそろと身体を起こす。
見開かれた瞳は、はっきりと一護の姿を映していた。
しかし流れ落ちる涙はそのままで、それが一護を堪らなくさせる。
ルキアのこんな表情を見るのは初めてで、胸が疼いた。

「目、覚めたか?」
「あ…ああ」
幾分掠れた声で返事をし、ルキアはやおら頭を下げた。
「済まぬ、一護。その…起こしてしまったようだな」
「おまえなぁ…」
一護は呆れて溜息を吐き、再びそっと腕を伸ばした。
指が頬に触れた瞬間、ルキアは僅かに身体を強張らせた。
だが今度は拒むことはせず、戸惑いの表情を浮かべて一護を見上げる。
「ったく…謝ることじゃねえだろうが」
溢れる涙を親指で拭ってやると、ルキアが焦った様子で俯いた。
今更ながら自分が泣いていたことに気づき、どうして良いのか分からずにいる。
「す、済まぬ…」
「だから謝んなって」
再度溜息を吐いて受け流し、一護はつと眉を顰めた。
手に触れたルキアの髪が、僅かながら湿り気を帯びている。
「ルキア、ちょっといいか?」
「え…?」
一護は有無を言わさず上半身を押入れに突っ込み、ルキアの両脇に腕を差し入れた。
きょとんと見上げるルキアの小さな身体を抱き上げて、そっと部屋の床に立たせる。
抵抗されるのではと内心危惧していたのだが、ルキアはおとなしくしていた。
床に下ろされても、幾分困惑の面持ちで一護を見つめるだけだ。
「ここで待ってろ。すぐに戻る」
立ち尽くすルキアにそう言い聞かせ、一護は部屋の外に出た。

足音を忍ばせて階段を下り、風呂場横の脱衣所へと滑り込む。
乾燥機の中から妹のパジャマと大きめのタオルを掴み出して、今度は台所へ取って返す。
妹達のお陰で、こういう時の対応はお手の物だ。
冷えたミネラルウォーターのボトルを冷蔵庫から取り出し、階段を上がって自室へ戻る。
部屋のドアを静かに開けると、物音を聞きつけたルキアが振り返った。
先程よりも表情がはっきりしているのを確かめ、一護は密かに胸を撫で下ろす。
「そんなに汗かいてりゃ気持ち悪いだろ。向こう見ててやるから、早く着替えちまえよ」
「…」
立ち竦んだままのルキアの腕にパジャマとタオルを押し付け、一護はくるりと背を向けた。
背後から聞こえる衣擦れの音を毅然と無視して、直立不動の姿勢を崩さない。
やがて、
「…着替えたぞ、一護」
振り向いた視線の先で、着替えを終えたルキアが所在無げに佇んでいた。
憔悴しきった表情は、いつもの覇気溢れる姿からは想像も出来ない。
「とにかく、突っ立ってねえで座れよ」
水のボトルを手渡し、一護は顎でベッドを示す。
ルキアはこくりと頷いて、遠慮がちにベッドの端に腰を下ろした。

二人の間に沈黙が下りる。
少し距離を置いた場所に自分は立ったままで、一護はルキアを見つめた。
ルキアが話したくないと言うのなら、それで構わない。
無理に聞き出すつもりはなかった。
ルキアは暫く無言で水のボトルを弄んでいたが、
「ここ最近…厭な夢を見るのだ」
俯いたまま、訥々と言葉を連ねる。
「妹達を起こしてしまうかもしれぬし…慣れた場所ならば大丈夫かと思って…」
「押入れに潜り込んだ…そういうことか」
「ああ。だが結局、貴様に迷惑をかけてしまったな…済まぬ」
ルキアは深々と頭を下げ、口を噤んだ。
相変わらずの口調に、一護は一瞬天を仰いだ。
「あのな、俺は迷惑だとか思っちゃいねえよ。もう謝んなって」
「…」
「それよりルキア、おまえ本当に大丈夫か?」
真摯な気持ちから、一護が問う。
「顔色も悪いし…疲れてんだろ。毎晩眠れないのか?」
「いや、ここ2,3日だけだ。それに一睡も出来ぬという訳でも…」
ルキアは言葉を切り、顔を上げた。
真っ直ぐに一護を見て、微かに笑ってみせる。
「もう平気だ。世話になった」
しかしその微笑は痛々しく、それが一護を苛立たせる。

少しも平気じゃない癖に、何故この死神はこうも素直になれないのか。
苛立つ気持ちを悟られないよう努めながら、一護は自分もベッドに上がった。
それを退室の合図と受け取ったのか、ルキアが腰を浮かせる。
「おい、何処に行くんだ?」
「妹達の部屋に…」
「こういう時は、誰かに添い寝をしてもらった方が落ち着くんだよ」
ややぶっきらぼうに言い放ち、一護はベッドの壁際に身を寄せた。
横たえた身体をルキアの方に向け、傍らの空いたスペースをとんとんと叩く。
「まだ真夜中だろ。さっさと寝ちまえ」
「!?」
思いも寄らない申し出に、ルキアは虚を突かれた表情で一護の顔を見つめた。
「あいつらの部屋も却下、押入れも却下だ。ほら、早くしろって」
「し、しかし一護…」
「もしおまえが魘されても、ここならすぐに起こしてやれるだろーが」
一護のその言葉が躊躇うルキアの背中を押した。
おずおずとベッドに上がり、一護の傍らに恐々と身体を横たえる。
一人用のベッドはさすがに手狭で、向き合うとルキアの頭の天辺が一護の顎に触れた。
「狭いのは我慢しろよ。ここは朽木のお屋敷とは違うんだからな」
少しでも気分を楽にしてやろうと、一護が軽口を叩く。
だがルキアは至極真剣な顔で頷き、
「そのような贅沢など、言わぬ」
向かい合う一護の顔を見上げてそう告げた。

いかにもルキアらしい受け答えに一護は苦笑し、毛布を引っ張り上げて二人の身体を覆う。
初秋とはいえ、今夜は少し肌寒い。
「もうちょいくっつけ、ルキア。それじゃベッドから落ちるぞ」
「う、うむ」
しかし返事に反して、ルキアはほんの少し一護の側へにじり寄っただけだ。
「…莫迦かてめー、さっきと全然変わってねえよ」
決して気の長い性質でない一護は、ついに痺れを切らした。
毛布の上からルキアの背中に腕を回し、ぐいと己の方に引き寄せる。
荒っぽい仕草だったが、ルキアは少しも恐怖を感じずにいた。
ただ無言で、されるがままに身体を委ねる。
そんな自分が不思議でならなかった。
驚きと同時に込み上げる安堵感は例えようもなく、一護の胸にそっと額をつける。
薄いシャツを通して、一護の鼓動が直に伝わる。
力強いその音を聞きながら、ルキアは静かに眼を閉じた。

微かに聞こえる、規則正しい静かな寝息。
掌を通して伝わる温もりと、呼吸に合わせて上下する小さな背中。
今こうしてルキアが自分の腕の中に居ることが、俄かには信じ難かった。
ずっと待ち焦がれていた瞬間だというのに。
押入れの中から抱き上げた時、あまりに華奢な肢体に怖気づいた。
手荒に扱うと壊れてしまいそうな気がして、脅えずにはいられなかった。
頬を伝う涙を見た瞬間、胸の中で何かが弾けた。
この死神を護りたいと、切にそう願った。
恐る恐る掌を動かし、ルキアの背中を優しく撫でる。
少しでも安らかな眠りが訪れるようにと、ただそれだけを望んで。
「一護…?」
消え入りそうな声で呼びかけられ、ふと我に返る。
「何だ?」
「…有難う」
髪の陰に隠れたルキアの表情を窺い知ることは出来ない。
だが、縋りつくように胸に顔を埋めてくる仕草だけで満たされた。
「礼なんか要らねえっての…」
照れ隠しに呟いてみたが、ルキアの返事は無かった。
今度こそ完全に寝入ってしまったらしい。
幼子をあやすように背を撫で続けながら、一護は思いを巡らせる。

…なあ、ルキア。
少しは自惚れてもいいか?
俺を信用してくれているから、そんなふうに安心して眠っちまうんだろ。
他の野郎にはそんな顔、見せたりしないよな。
ずっとずっと腕の中に閉じ込めておけたら、どんなに良いだろう。
独り善がりな考えだというのは百も承知だ。
でも、そう願わずにはいられなかった。
「もう…悪い夢なんか見るんじゃねえぞ」
俺が護るから。
聞こえないとは知りつつも、眠り続けるルキアの耳にそっと囁く。
「おやすみ…ルキア」

瞼を通して射し込む光の眩しさに、ルキアは眼を開けた。
一瞬己の置かれている状況が把握出来ず、戸惑いの表情を浮かべる。
一護の部屋の、一護のベッド。
そして一護の姿は何処にも見当たらない。
どうして此処に…!?
飛び起きた途端に意識が覚醒し、昨夜の記憶が甦る。
…ああ、そうだ。
酷い悪夢に魘されて、一護に起こされたのだった。
まるで子どもだと自嘲気味に笑い、ルキアはふと眉を顰めた。
そういえば…昨夜のあ奴、妙に甲斐甲斐しかったな。
替えの服を用意し、水を飲ませてくれ、添い寝まで…。
寝付くまでの間ずっと背中を擦ってくれたことも、朧気ながら憶えている。
ぶっきらぼうで取っ付き難く、いつも眉間に皺を寄せている癖に。
怪訝な顔のまま床に降り立ち、窓際へと歩み寄る。
カーテンの隙間から覗いた空は雲ひとつ無く澄み渡り、陽は既に高い。
完全に遅刻だなと呟いて部屋の中へと向き直りかけ、一護の机の上に視線が留まった。
破り取ったノートの切れ端に、何事か書き付けてある。
拾い上げて目を落とし、ルキアは微笑した。
『学校は休んで、ゆっくり寝てろ。
腹が減ったら、朝メシは冷蔵庫の中だ。
伝令神機はオレが持って行くから、心配するな』
癖のある一護の字を指でなぞりながら、
「意外に心配性なのだな、一護の奴は…」
呟くその頬が微かに紅い。

一方的に心配されるというのは性に合わないが、同時に面映いような気持ちもある。
結局、あの後は夢も見ないほどの深い眠りを貪った。
ここ数日というもの、碌に一睡も出来ずにいたというのに。
一護の温かさを全身で感じ、安心して眠りに身を委ねることが出来た。
思い返すと顔が熱く火照る。
逞しい腕、大きな掌、厚い胸板…。
その全身で、強くそして優しく包み込んでくれた。
温もりが心地良くて、ずっと浸っていたいと願った。
ずっと抱きしめていて欲しかった。
だが、一護に他意が無いというのは判っていた。
昨夜とて、きっと愚図る子どもを宥めるのと何ら変わらない気持ちだった筈だ。
判ってはいても、やはり淋しかった。
…淋しい?
これ以上、何かを望んでいるというのか?
「なっ、何を考えているのだ私は…」
首を振って巡る思いを断ち切り、ルキアは階下へ向った。


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